世界のすべての部分を描ききろうとする。
それからずっと幸せに暮らしましたとさ、ところが、、、
They lived happily ever after, but....
1985-87 /180x360cm
私達、人間は生まれる時は大自然として生まれて来ます。そしていろいろな教育や洗脳を受けて、人間としての方向性を定められ、大自然から離れ人工物化して行きます。
人間は本来、自由で全く方向性を持たずやわらかな大自然そのものであるのが自然状態の姿ですが、アート、芸術はそういう人間の本来の自由であった自然状態の姿とはどういうものであるのかを考えて行く行為と言えます。
あらゆる人間がその身体内に、大自然として、美しいもの、醜いもの、善、悪、強いもの、弱いもの、中庸のもの、極端なもの、複雑なもの、単純なもの、矛盾に満ちたものなどの全てを持ってこの地上に生まれて来ます。
私自身もそのようにしてこの地上に生まれて来た一人であり、私の中の大自然のあらゆる要素をそのままにとらえて、人間の自然状態の全体、総体をとらえようとして制作したのがこの作品です。日々私の中のあらゆる要素を何物にもとらわれる事なく描き込んでしまおうと、毎日、毎日描いて、完成までに2年間かかっています。
パワーシャベル・風景・花(左)
Powershovel,landscape and a flower
1993 /31x56cm
人・水・風景(右)
Man,water and landscape
1992-93 /31x56cm
漂うもの-1
Floating matter-1
1997-98 /92x244cm
私達人間を含めた全ての存在が、宇宙の空間と片雲流れる大平原に漂っているものであるというのは、情緒としてではなく、科学や知性が発見して行く究極の事実、真実であるといえます。すべてのものが声高に自己を主張することなく、何気ないもの、何でもないもの、路傍のものでありながら、静かに、平明に、すばらしいものとして存在しています。
人間界、スズメ界、リス界、スイレン界、などなどのすべてが自然界の大きな世界では漂泊を重ねる平等の世界に住んでいます。自然はこれらの変化転変の稀有な瞬間の集積から出来ています。私はその瞬間の採集者、測量士でありたいと思っています。
アフリカのトンボのヤゴは静かな水の流れの上に瞬時静止し、睡蓮は幼いつぼみを従えて言葉を語る必要を知らず、ペリカン達は透明の水辺に群れ、さざなみは散策に絶え間なく、セントラルパークの黄色の草花はすっくと一人で立ち、アフリカ・コウノトリはそぞろ歩きの日常に多忙であり、セントラルパークのカエルたちは四肢を広げて遊泳し、亀はけなげに流れの小岩にしがみつき、ニューヨークの近所の公園では人々が秋の日だまりに集合し、ユタ州の赤トンボはやわらかな夕日の中にしばし休息しています。
26丁目の天気の良い朝(左)
Sunny mornings on 26th Street
1998 /230x100.5cm
26丁目の地平線(右)
Horizon on 26th Street
1987-88 /88.5x100.5cm
Rの日々-9(左)
Days of R-9
1987 36x36cm
要素大きいものと小さいものNo.33(右)
Elements large and small No.33
1994-95 /10x17.7cm
花・風景・少年(左)
Flower,landscape and aboy
1992 /31x56cm
バケツ・風景・アヒル(右)
Flower,bucket and ducks
1992-93 /31x56cm
アヒル・風景・睡蓮(左)
Ducks,landscape and waterlily
1992-93 /31x56cm
要素大きいものと小さいものNo.25(右)
Elements,lage and small no.25
1994-95 /10x17.7cm